原始・古代の岡谷 その3

更新日:2020年03月27日

顔面把手付深鉢形土器

梨久保遺跡

6 奈良・平安時代諏訪郡と榎垣外官衙跡

 「大化の改新」と呼ばれる大化元年(645)の政変は、律令国家の建設をめざして、新しい制度である公地公民の制や地方行政組織の整備などをすすめた。

 大化末年の国の制度の実施に伴って科野の国が成立、中央から国司が派遣され、国の下に郡がおかれて統治されたと思われるが、この頃の諏訪に関する資料がないためよくわかっていない。

 大宝元年(701)、大宝律令が制定されて以後、一切の行政は大宝令に定められた諸制度によって行なうようにという勅令が発っせられ律令国家が確立した。藤原宮(奈良県橿原氏)、文武天皇の時代であった。

 当然、それは地方におよび、新しい国家体制の中に組み込まれ、信濃の国に諏訪郡もおかれたであろうがはっきりしない。

 奈良時代に入って、養老5年(721)、信濃の国を割いて諏訪の国が設置され、10年後の天平3年(731)には諏訪国を廃して信濃の国に合併された(続日本記)。

 たとえわずか10年でも諏訪の国がおかれたことについては、これまでさまざまな学説が出され、また諏訪の特異性とも言われているところである。これについては近年の考古学調査の成果において、榎垣外遺跡(中屋スクモ塚地籍)から、古代官衙(役所)跡と見られる掘立柱建物跡が発見され、郡衙(郡の役所)である可能性が指摘されている(成立後間もない小国では郡衙がそのまま国衙になったとされる)。

 古代国衙は、政務や儀式を司る庁(政庁)や徴収した稲(税)などを収納する正倉、国司など役人が生活する館といった諸施設から構成された、言わば計画的に造られた都城にちかいものであった。榎垣外遺跡は2キロメートル四方に及ぶ広い範囲から、7から11世紀頃の竪穴住居や掘立柱建物跡が発見され、特にスクモ塚地籍では、1×10間(柱が11本2列に並ぶ建物)の長い建物や、2×3間の高床式住居、2×2間、3×3間の高床式倉庫などが規則的に配置されていた。これは、県内では唯一の建物群である。

 郡衙は国衙に準じて造営されたと考えられており、郡司などの役人が主に税の徴収に当たっていた中央政権の最先端機関であった。律令体制の確立後、これまでの古い勢力(国造など地方の有力豪族)を退けて、都から派遣されてきた国司が政務を遂行するには、古い豪族の力が比較的弱かった湖北の地に、新しい官衙を設ける必要があったのであろう。諏訪の神(下社)と金刺氏の存在がその辺の事情を物語っているようである。

7 平安時代岡屋牧と岡屋郷

 大宝令で牧を定めて牛馬を放つことが発せられたが、恐らくこれ以前から信濃には朝廷直属の牧がおかれていたことであろう。信濃に16牧があり、諏訪郡には「岡屋牧、塩原牧、山鹿牧」がしられている(延喜式)。そのなかで岡屋牧は、古来より、現在の岡谷から三沢・新倉の川岸方面一帯が該当するとされてきた。

 牧には牧長、牧帳、牧子がおかれ、管理は国司のもとで、後には牧監がおこなった。牧監には職田が給され、牧の経営の生活基盤として多数の民が農耕生活をしていた。当然ながら牧場とは別に、ムラや役所があったわけであるが、それがどこかはっきりしない。8世紀以降ののムラは、前代に引き続いて海戸や榎垣外を中心に営まれた。あるいは中央道長野線に伴う大久保遺跡(岡谷トンネル付近)の火葬墓から出土した八稜鏡は、牧に関連した貴人の存在を語っているのかもしれない。

 信濃の国牧からは、毎年朝廷に貢馬が納められた。これが有名な「駒牽の行事」であった。望月駒を主に、これは鎌倉時代まで続いたが、岡屋牧がその後どのような変遷をたどったか明らかではない。鎌倉時代になると、岡仁屋郷、岡屋郷の名はあっても岡屋牧の名は見えなくなってしまう。平安時代末頃には荘園化してしまったものと考えられている。

壷を持つ妊婦土偶

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