原始・古代の岡谷 その1

更新日:2020年03月27日

顔面把手付深鉢形土器

梨久保遺跡

顔面把手付深鉢形土器

 海戸遺跡から出土した縄文時代の土器です。顔が外を向いたスタイルで、完全な形に復原された全国的にも数少ないものとして、国の重要文化財に指定され、岡谷美術考古館に展示されています。

梨久保遺跡

 諏訪地方には数多くの遺跡が発掘されていますが、その中でも最も早く学会に報告された遺跡のひとつが梨久保遺跡です。縄文時代中期の深鉢土器や石器など、数多くの考古資料が出土し、国指定の史跡になっています。

壷を持つ妊婦土偶

 岡谷市の目切(めきり)遺跡から出土した縄文時代の土偶で、岡谷美術考古館に展示されています。妊娠したお腹の大きな女性をあらわし、食物の豊穣と安産を祈願したものとされています。壷を抱えて腰に手をあてたポーズの完全な姿は、国内ではただ一点という貴重な土偶です。

1 岡谷の黎明期─ 先住民の到来

 岡谷のもっとも古い人類の足跡は、石製の槍先形石器(尖頭器)を付けた槍を手に、梨久保(中村)や榎垣外遺跡(中屋)に訪れた小集団をはじめとする。先土器時代の終末期、今からおよそ1万2千から5千年ほど前といわれるが、この前後の様子はよくわかっていない。
 それからしばらくして、中島遺跡(今井)に、人類は確かな生活の営みを残していった。多量の黒耀石製の槍先形石器とその製作石片は、長期の滞留を物語り、すでに、日本ではもっとも古い土器(隆起線文土器)を持っていた。

2 縄文文化の曙─ 森と高原の文化

 岡谷に先住民が定住するようになるのは、弓矢と尖底土器を持った縄文人になってからである。樋沢遺跡(岡谷樋沢)を標式とする押型文という特殊な文様の土器は、汎日本的な流行を見せた最初の縄文土器で、縄文文化が列島に定着して安定した社会を確立した時期といわれる今から8000年前、樋沢をはじめ、下り林(岡谷小学校上)、梨平(湊西山)といった高原上地形にに生活の主舞台をおいた狩猟・採集経済社会の時代である。転変地変の大変動期を過ぎ、気候も安定化にむかって、ほぼ現在と変わらぬ地理的景観となったころである。

3 縄文文化の繁栄─ 縄文王国

 縄文時代の前期、やや気候が温暖化すると関東地方を中心に漁労活動が発達するが、その頃は岡谷にあまりムラの営みが見られなくなってしまう。しかし、いまから5から6000年前、またわずかに寒冷化すると、再び縄文人の格好の居住地となって、たくさんのムラが出現し、八ケ岳山麓を中心に、中部山岳地は、「縄文王国」といわれるほどに繁栄をみた。
 岡谷では梨久保、海戸(小尾口)、上向(今井)、花上寺(小坂)に大規模なムラが形成された。
 この繁栄は、豊かな広葉樹林帯を背景に、狩猟・漁労とともに植物質食料の採集が計画的に行なわれたことと、地理的に東西文化の狭間に位置して文化的刺激を受けていたことや、豊富な和田峠の黒耀石が経済的な優位性を救けたに違いないと考えられている。それは、豪華に飾られた縄文土器や顔面把手付土器の優品が豊かな社会を物語っているといえよう。
 顔面把手という人の顔を表した口縁の突起状の飾りは、中部山岳地の特に諏訪・上伊那を中心に、山梨から静岡・神奈川の関東地方の山間地遺跡に分布する限られた土器に見られ、当時この地域に一大文化圏の形成されていたことが知られている。

壷を持つ妊婦土偶

壷を持つ妊婦土偶

この記事に関するお問い合わせ先

美術考古館

〒394-0027
長野県岡谷市中央町1-9-8
電話:0266-22-5854