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原始・古代の岡谷 その2

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月22日
顔面把手付深鉢形土器梨久保遺跡
顔面把手付深鉢形土器梨久保遺跡

 

4 弥生時代稲作農耕の定着

 紀元前300年頃、北九州に始まった稲作農耕は、次第に東日本に伝わり、200年後には諏訪地方にもイネは確実に入ってきたと考えられている。狩猟・漁労・採集の生活が限界にあった縄文人は、新しいイネの栽培を始めて、諏訪湖釜口から天竜川周辺にムラを構成していった。
 特に弥生時代後期になって、鉄製工具が普及するや、山国信濃にも大規模なムラが各地に発達した。諏訪地方では、岡谷では、庄ノ畑(小口)、橋原・経塚(橋原)に初期の弥生時代のムラが出現して、さらに海戸、天王垣外(新屋敷)、横道(岡谷)に大きなムラとなって発展した。
 この頃の生活の様子は橋原遺跡の調査で明らかになっている。それによると、弥生時代後期のはじめから古代にわたりムラが営まれ、米はもちろんアワといった雑穀類や豆も栽培され、鉄器が盛んに使われていた。ムラには集会所のような大きな建物もあり、巫か首長の住んでいたと思われる特殊な住居も発見され、最盛期は15から20棟以上のムラに発展していたようである。これにより稲作を中心とした農耕社会は、今からおよそ1800年前頃には、完全に岡谷にも定着していたことがわかった。
 諏訪湖の釜口から川岸の一帯には、弥生時代の遺跡が集中しており、諏訪地方でももっとも早い時期に、農耕のムラが発達した地域である。天王垣外から発見された300点の玉 類(翡翠製勾玉、鉄石英製管玉等)に見られるように、ここにはムラを統括した王者が存在したことは確実であり、初期の諏訪の国の誕生と見ることもできよう。
 弥生時代は「戦いの時代」といわれる。倭国大乱を経て、日本のクニが誕生しようとしていた頃である。

5 古墳時代の諏訪

 弥生時代の終わりごろから物資の交流が盛んになり、それは畿内産の土器が全国規模で動いていたことに示されるように、畿内地方を中枢に確実に新しい動きが信濃にも波及した。その最大の変化は一様に新しい墓(古墳)が造られるようになったことである。
 前方後円墳と呼ばれる巨大な墓を各地の有力な豪族が造るようになった背景は、畿内の大きな勢力が強力な軍事力をもって東日本を支配下に治めたからであった。古墳は畿内勢力圏、すなわち大和朝廷に服したしるしか、あるいは派遣されてきた将軍の残したものとということであろう。
 諏訪地方では唯一、下諏訪町の青塚古墳が前方後円墳の姿を明確に残す。岡谷のスクモ塚古墳(東堀)も平地に築かれた前方後円墳である可能性があるといわれている
 市内でもっとも古い古墳は、現在わかっているものでは、湊小坂の糠塚古墳(6世紀前半期)である。諏訪地方でもっとも古い古墳であるフネ古墳(諏訪市有賀)に近い。湖北地区にはこのような古い古墳は造られなかった。岡谷にあるたくさんの古墳は、そのほとんどが、日本の国家としての体制が確立した7から8世紀初頭に造られたものである。今井・横川・中屋・中村の山の手山麓に築造された横穴石室の小円墳には、たくさんの武器(直刀、鉄鏃ーヤジリ)と馬具で飾られた有力者が葬られた。
 4から6世紀のムラは、新井南(小坂)、海戸遺跡にわずかに知られているだけで、あまりわかっていない。

壷を持つ妊婦土偶
壷を持つ妊婦土偶

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